こんにちは。ミッキーです。 記事としてはかなり古くなってしまいましたが、不本意ながら、あの「フクシマ」へ、4月10日の日曜日から行ってきました。 と言うより、帰省してきました。
福島県郡山市で生まれ育った私は、いまでも大阪の知人よりも、福島の知人の数のほうがずっと ず~っと多いのです。そのたくさんの知人友人と、兄姉たちの事が気になって、 気になって。 ずーっと気になっていて。 大阪には、居ても発ってもいられずに、危険を覚悟で行きました。 (ちょっと大袈裟だけど、 その時の私は真剣そのものでした[E:think])
郡山市は、海岸から60キロ程離れているので、津波の心配はしてなかったけれど、郡山市の南に位置する白河市や須賀川市の映像が放送され、死者も出ていた状況と、放射能問題で、外出を控えている現実に、私にも何かできるはず・・・と。
飛行場から、最初の目的地 支援センターに向う。幹線道路は既に整備されていたが、ブルーシートに覆われた屋根が続いていました。(修復するにも、瓦が無くて、今もまだブルーシートのままらしいです) そして、被災地障がい者支センターふくしまに到着。 震災後急遽開設された事務所で、既存の自立センター オフィスあいえる に間借りする形でした。 チャイムを鳴らしても何の応答もない。 どうしたのかなぁ と思いつつ、今度は大声で声を掛ける。 それでも何の返答もない。 持参した案内図に記載されていた番号に電話して、事務所が移転されていた事実が判明。 地元に住む姉の車で、 新事務所へ。 支援センターふくしまは、障害者支援の福島県統括本部。京都府から応援にきていた人や吹田市からの応援者・県内の二本松市からの応援者などから話をお伺いし、義捐金をお渡ししてボランティア1日目終了しました。支援センターふくしまは、今も頑張って活動しています。
翌11日は、実家の片付けを手伝う。母屋も蔵も築170年位経っている。その蔵が全壊してしまった。蔵には長持が数個ある。「ながもち」って言葉そのものが死語になっている感はありますが、歴史の一こまを覗いたようで、目の前の現実とは裏腹に、なんだか嬉しくなった一瞬でもありました。 そんな中でも、度重なる大きな余震(震度6弱とか、5強とか)に震え上がる。覚悟しているとはいえ、足がすくみ、戸外に出ることに手間どってしまった。 郡山の人達は、余震が始る前の「ゴーッ」という音を感知して、「地震が来るぞ!」と予知してくれたし、揺れの度合いで震度も当ててしまう程、悲しいかな、地震慣れしてしまっていました。 そんな私も、三日もすると、震度3位の揺れには驚かなくなっていましたね。
それと、テレビ等で地震速報が出て、何秒後かに地震が起こると思っていたけれど、震源地近くで速報が出た時は、揺れてる真っ只中にあることにも気付きました。予知にはなっていないんだなぁ・・・と。
避難所をたずねたり、兄姉達の家を回ったりする日々をすごし、予定より二日早めて木曜日の[E:airplane]最終便で帰阪しました。 慣れない肉体労働?と放射能問題で疲労困憊。 一週間の休みを快諾してくださったサポネの皆様、そして障害者団体の方々にもご心配かけましが、今は元気で、仕事に趣味に走りまわっています。 ありがとうございました。